序 文
第一章 自伝的 真理探究の物語
第二章 《超越人格》の普遍的な姿
第三章 超越人格の導き
第四章 自己改造のための自明行
第五章 帰還の時
結言
この書は私の実際の体験を通して語られる、普遍の真理に至るための案内書である。そしてこの書はあなたが今直面している人生の困難を乗り越えて、真の幸福を得るための手引き書である。
人は誰しも人生の大きな悲しみや運命的苦しみに直面した時、それまでの生き方の変更を余儀なくされ、心機一転人生の再出発をしたいと思うものである。
そのような時、人は無自覚のうちに、あるいは明確に自覚して、人知を越えた「超越的存在」に心を向け、自分の運命に立ちはだかる大きな障害の解決を願うものである。
そこで人は新しい人生を歩もうと、『人間やりなおし』を決意し、その「超越的存在」を前提とした生き方を探し求めて人生の旅を始めることになる。
ところが実に不思議なことであるが、人類には百万年の歴史がありながら、いまだ「超越的存在」を前提とした価値体系というものが普遍的な形でこの世に存在していないことに気づくのである。
確かにそれに近いものとして宗教というものが有るには有るが、徹底した『人間やりなおし』を求め、どこまでも「普遍の真理」を追究する当時の私からは、「そのあるものは自己を世界の中心に置く独善的世界と他の宗教を受け入れない閉ざされた排他的世界の中に閉じこもっていて、それ故に普遍性を大きく欠いたまま強引な価値観を作っている」とみえたものである。そしてまたあるものは、「絶対であるべき神や仏を悪魔や悪霊と対立する宇宙観の中に位置づけるために、結果的に絶対性を失い自ら相対の世界の中に落ちこんでしまっており、大きく魅力を失ってしまっている」と思えたものである。
このように多くの宗教は真理の普遍性を失い、普遍性を失ったまま絶対性を主張することで独善となり、実に傲慢(ごう まん)で不完全な姿でしか存在していないことに、当時の私は絶望的になっていた。
私は「超越的存在」を求める入り口の段階で、既にこのように最も本質的矛盾に突き当たり、それを到底宗教の範疇(はんちゅう)では解決できないことを知り、かえって苦しんでしまっていたものである。
それは私でなくても、真理に素直な人であるなら、宗教の中に長くいるとその独善的な自己中心の世界観にうんざりし、何とかそこから脱却したいと悩むはずである。
当時の私は、絶対普遍の存在であるべき「超越的存在」を自分達の勢力の中に取りこみ、真理の普遍性をわざわざ捨て去って独善の中に安住し、そのことで信仰心を強め、我田引水のへ理屈を発明して妙に有り難がってみたり、他との比較の優越感にどっぷり浸り切ることで救われを得ようとすることでは、到底満足のできない部類の人間であった。
また私が、多くの道を求め真の幸福を求める人々と話してみて感じたことは、人知を越えた「超越的存在」を直感していながら宗教には決して近づこうとしないでいる人達が多くいる、ということである。
つまり宗教にはどこか否定的であり嫌悪感さえ持っていながら、「超越的存在」を明らかに意識して真摯に生きている知性的な人達は案外多いのである。それは宗教に対して当時の私と同じ問題で悩む故であろう。
はたして現代において多くの宗教は、真摯に道を求め真の幸福を求めるそのような人達に対して、本質的に矛盾のない解決を与えるだけの力と普遍性を持ち合わせているであろうか。
普遍の真理を求め、『人間やりなおし』によって運命的困難を乗り越えようとする当時の私にとっては、人知を越える「超越的存在」を心のどこかで確かに感じていたからこそ、「超越的存在」を前提とした価値体系が存在するならば、それはある宗教のように自己中心の世界観や独善的価値観であってはならず、普遍的でなければならず、排他的であってはならないと私は強く思い続けていたものである。このように当時の私の求めているものは、もはや宗教とは言えないものであった。
私はそれ以来、人類普遍の価値体系をもたらす「超越的存在」はもはや宗教の中に居られるはずはないと確信して、まだ見ぬ「超越的存在」に対してこれらの疑問に解決の道を示して下さるように、そして「超越的存在」による絶対普遍の価値体系を示して下さるように、そしてその価値体系に沿った『人間やりなおし』の道を示して下さるように、真剣に祈り続けたのである。
そしてその私の祈りは、結果的に最も本質的なところでかなえられていくことになった。
それは私が初めに期待していたこと、即ち書物や言葉で教えて頂くというスタイルではなくて、結局私自身が「超越的存在」の直接の強い指導の下に、普遍の真理を得る道を開拓し、その道に沿った『人間やりなおし』を実践することによって、真の幸福を得る方法論を体得するという思いがけない運命に導かれて行くことになったのである。
結果から言うならば、「超越的存在」は私の確信の通り、まさしく宗教の外側に厳然として居られたのである。
そして普遍の真理を得てみれば世の中にはすばらしい宗教も当然有ったし、独善と見えた宗教も文化の中でそれなりの部分の働きを十分していることが理解できたのである。ただしそれらの宗教は、文化全体の中で自らの立場を確立できない、傲慢で危険な姿のままではあるが。
世の中に「超越的存在」を説かない宗教はない。愛の大切さを説かない宗教はない。反省の必要性を説かない宗教はない。そして人生を真面目に生きようとしている人であるなら、愛深くあることの大切さを知らないはずはない。正しい行いが必要であることを知らないはずはない。反省の必要性を知らないはずはない。
真理の言葉を満載する宗教によって、「愛とはこういうものだ」「これが正しい道だ」と示されて、それをそのまま実行できる人はもう既に救われている人であり、その人にとってはただその自覚だけが必要であったのだ。
また心素直でない人は、その虚栄心が「その通りできない自分」を隠し、知識を得たことであたかも「その通りできている」ように振る舞い、自分でもできていると錯覚し、人に「良い人だ」と言われることで満足するのだ。この人達にとっては、神さまにではなく他人にどう思われるかだけが大事なのであって、他人との比較の中にだけ住んでいて、そのために一所懸命宗教をやっているようですらある。
「愛とは何か」を示され「正しい道」を示され、それを知識として理解することで自分はもう既に「その通りできている」と錯覚できるおめでたい部類の人達は、その宗教で十分満足してしまうものである。
そして何よりもその「愛とは何か」を説き、「正しい道」を説く人が、自分自身を見極めていなければ、自分を何か特別の人間と思いこみ、自分には決してできないことを、そうとは知らずに周囲に向かって堂々と説くことになり、それでは虚栄の世界を作りながら偽善をどんどん積み重ね、自己矛盾を積み重ねていくことになってしまうのである。
しかし心素直な人は今、人生を真剣に生きようとする中で愛深くあろうとしても、そうできない自分に直面して苦しんでいるのだ。どうしたら愛深く成れるかを求めて苦しんでいるのだ。
正しい行いが必要であることなどは誰でも当然分かっていて、問題は常にその正しい行いができないことで悩むのである。反省深く生きているつもりでも、ある時根本が何も変わっていない自分自身に直面して絶望するのである。
真実は、そのような現実のどうしようもないダメな自分に直面してからが、本当の信仰なのだ。
そしてその「どうしようもないダメな自分」に直面した人が実践し、真の救われを得ることができるかどうかで、その宗教が真の宗教か、それとも独善的世界観の中に人々を閉じこめることで他からの優越感を与え、仮そめの安住の地を与えるだけの……、そしてただ集団的陶酔と自己満足と虚栄とを与えるだけの偽の宗教かが明らかにされるのである。
ここではこの書の限られた紙面を、愛の大切さを説くことよりは、「どうしたら愛深い自分に成れるか」の方法論を説くことのために多くを割いた。
愛はいかなる宗教においても常に語られることであるが、真剣に生きようとする人にとって、愛や思いやりの大切なことなどはあまりにも当然過ぎるほど当然である。
そして正しい行いが必要なことなど、三歳の子供でも十分知っていることである。
私がこの書で述べたいことは、「愛の大切なことなどは当然とした上で、それではどうしたら人に見せるための偽善的な愛にならずに、本当の愛を実践することができるか。決して虚栄心を満足させるためではない、決して自分や他人への見せかけではない、心の底からの愛とはどういうことか。そしてそうできない自分自身に直面した時にどうすれば良いか」ということなのだ。そして正しい正しいと言っても、正義と正義が衝突する現代において、何が正しいのかを正しく判断するのは極めて困難である。むしろ現代はそれをめったに判断してはいけないのである。
そして真の正しい判断力と矛盾のない行動原理を得るためには、最低この書で示した「行」を実践し、超越思考を得なければならないことになる。
この書を執筆するにあたって私はあえて正しいとか間違いとか、善とか悪とかいう二極的表現を極力避けることにした。それは愛とか平和とか、善とか悪とか、正しいとか間違いとか、そういう象徴的な言葉を安易に遣(つか)ってしまうと具体的意味を失い、単なる「呪文(じゆ もん)」の言葉になり下がってしまうのを恐れることからと、善と悪の対立の中で真理を説くことには限界があるからである。
この書ではまず第一段階の「個人の救われ」に達するための方法論として、いくつかの「行」を実践的に示すように心がけた。そして特に私の体験を基として、自分の現実の姿を直視し、それを徹底して見極め、救われるべき自分自身の出発点を明確に定める「自明行(じ めい ぎよう)」を重点的に取り入れた。
人間の大きな可能性と現実の醜さ、この人間の光と陰の両面をバランス良くとらえるために、自己の現実を見極め、それに対処する「自明行」なくしては、いかに理想を高く掲げても、いくら熱っぽく愛を語っても、それだけでは現実から浮き上がってしまい、人間はその理想と現実のギャップの中でかえって苦しんでしまい、決して救われることはない。つまり直面する自己の現実の醜さ一つ一つに丁寧(てい ねい)に対処する「自明行」なくしては『人間やりなおし』は成功しないのである。
私は宗教に絶望し、宗教の外側に「超越的存在」を求めたのであり、それ故にこの書をいわゆる宗教書として見て戴きたくはない。私は文化家として、人間を生かしている精神文化に関する書として著したつもりである。
それでもこの書で述べる、宗教と重複する分野は長年の宗教体験を持った人にとっても大きな発見の連続となるに違いない。
これまでは自分自身にさえ隠してきた「愛深くあろうとしてもそうできない現実の自分」を、今度は恐れずに直視することができるはずだ。
そこであなたは初めて、自分自身の『人間やりなおし』へ向けての新しい出発点を発見し、今度こそ真の救われへの希望と実感を持てるであろう。
この書は、私が「超越的存在」に直接導かれ霊修行を通して得た真理に至る道と、そこへ至る方法論を整理して、皆さんにも日常生活の中で十分実践できるように改良工夫してある。それ故に私はこの書を徹底した現実主義の立場から執筆したつもりである。従ってこの書を読んでもし理想主義的と思われる方がいるとすれば、残念ながらその方は私の主旨を全く理解して戴いていないことになる。
この書は入門書としての位置づけにあり、課題を『人間やりなおし』として、魂の救われという宗教的な「個人の救われ」の問題にかなり限定して絞りこんだ。
さらに『人間やりなおし』の次に来るべき、人間の究極の理想を指し示すことと、そこへ至る方法論、及び社会や国家の問題、民族と歴史の問題、そして組織や人類に関する問題など『全体やりなおし』の課題は私の既刊の四冊(巻末を参照)、及び次巻に譲ることにした。