□前編 原罪消滅宣言
はじめに
Ⅰ章 イエスからの啓示
Ⅱ章 原罪消滅宣言
Ⅲ章 キリスト教再生とイエスの再臨
Ⅳ章 宗教としてのキリスト教
□後編 善悪二元論から一元論へ
Ⅴ章 古代史と、人類の精神の解放
Ⅵ章 地球に係わった知的生命体とイエスの誕生
Ⅶ章 イエスによる最終章
Ⅷ章 むすび□付録編 人類への警告
Ⅸ章 ガブリエルの怒り
■執筆を終えて振り返る
■宇宙連盟への報告 第一報
■「現代の黙示録」の意義
キリスト教徒ではない私が、キリスト教に対する素朴な疑問を抱くことから、それは始まったのでした。
そもそも、新約聖書はイエスの没後三〇〇年ほど経ってから、ローマ帝国の皇帝、コンスタンチヌス帝が主催する、第一回ニカイア会議(紀元三二五年)によって、以後複数回に亘って開催された会議を基として編纂(さん)されたモノであります。果たしてそこにどれだけイエスの主旨が反映されているのか。その内容を何処まで信じて良いのか。そしてその内容を、天のイエスは認めているのだろうか。という疑問を、私は直接イエスに投げかけたのです。
結果的に言うならば、この私の疑問は、天においても重要な問題であって、私の疑問に対してイエスが直接回答してくれて、その後次々と、想像も出来ないような展開が始まり、私は必死でそれを記述していきました。そしてイエスからの指示によって、この書を纏(まと)めることになったのです。
それをここに「現代の黙示録」として、私の受けた啓示の順番をそのままに記録としてここに著したのがこの書です。
これは、ここ数千年の歴史の総集編であり、近くは中東と西欧における複雑に捻れに捻れた「人間の行い」と「神の指導」との関係を丁寧に解きほぐし、「そういうことだったのか。やっと分かった。」と胸のつかえが取れたような気分にさせてくれると思います。
【啓示を主とした執筆】
この書は、私がこれまで著してきた著書とは大きく異なり、特に啓示的な要素を中心に構成されていることが特徴です。
この書の主たるところが啓示であることから、「この書を執筆している本人が本人の考えとして書いているのではない」ということに十分に留意し、それを自分自身にも言い聞かせつつ、この書を書いています。そして勿論、私の考えは「私の考え」として、啓示とは区別して書くように心がけています。
本書は、この啓示の部分が中心となって展開していくので、これを敢えて「黙示録」として扱うことにしたのです。
「黙示録」とは、啓示する側が私の意識構造を使って、私の意識の世界の中に映し出してくる内容を、私の知識や体験を材料として、それを私の言葉で記述していることになります。
しかしながら、本人が啓示の部分を記述している瞬間は、すっかりその気で書いているのであり、それを私自身が誤解しないためにも、上記の説明は私自身に対する注意事項でもあります。
【著者の立ち位置】
私の立ち位置を簡単に示しておきます。
生涯をかけて普遍の真理を求めていた私は、神霊に導かれて修行し、普遍の真理を体得しました。その結果として自分の体得した覚醒の体験は拙著『自分の発見』(献文舎)と『人間やりなおし』(献文舎)に詳しく著しました。
その修行の終盤で、私は自らの覚醒の体験を般若心経の中に発見しました。普遍の真理は勿論私が独占するモノではなく、誰もが到達できる真理であり、それでこそ普遍の真理なのだと理解すべき事なのです。
そして、私の体験を般若心経に投影する事で般若心経の解読に成功したのです。そこには「宇宙と人間とそれらの関係」が普遍の真理として見事に説かれていたのでした。私の原点はここに有ります。
私にとっては私の修行の体験こそが私の取得した「普遍の真理」そのモノなのですが、ここでいちいち私のことを説明している余裕はないので、それを知りたい人は私の他の著書を読んでいただくこととしました。
そこでここではそれと同じモノが般若心経の中に既に書いて有ったということで、これをこの書では『般若心経の普遍的な世界観』と表記しました。
私の到達した「覚醒」の立場からキリスト教に係わるとき、そこには大きな疑問と矛盾が発生してしまい、それは私にとってはいずれ解決しなければならない重要な課題として約五〇年ほどそのまま放置してきたのです。
それが今やっと、この著作によって解決されたこととして、この書をまとめました。それが黙示録となったということも、私としては納得の展開です。
それでは少しずつ具体的に話していきましょう。
■新約聖書に対する疑問
私は新約聖書を横目で見ながら、キリスト教における「イエスの磔(はりつけ)による大犠牲」の意味が般若心経の普遍的意味から解釈してなかなか納得できずにいました。
私が到達した『般若心経の普遍的な世界観』に立てば、キリスト教の信仰の核となっている「磔による罪の贖(あがな)い」という思想は、それは「あり得るものではあっても信仰の一部分であり、有っても良いがそれが信仰の本質には成り得ない」との理解に達していました。
私はこれまで何度もいろんな宗派のキリスト教徒と宗教の話をする機会があったので、その時に挨拶代わりにいつも以下のような質問をしました。
キリスト教が説くように、「人類の犯した罪がイエスの磔の贖いによって消滅する」とする理屈にはかなりの無理がある。「磔以前の罪が無くなる」と言う程度ならまだしも、まだ犯していない千年後の罪も未来永劫贖うと言うなら、もはやそこに現実的意味はない。何処を調べてもイエスはそんな事を言ってはいない。磔から二千年後の今、二度も世界大戦を体験していて贖いにはまったく実感が持てない。
さらに、あなた方は選民意識を持っていて、それを我がことのように語るが、あなた方は聖書の言う「イスラエルの民」(ユダヤ人)ではないではないか。
これらの質問に対する彼らの回答で記憶に残る程のものはありませんでしたが、彼らの住んでいる世界を覗けただけでも意味はあったと思いました。
彼らの住んでいる世界を垣間見て、私が理解している「救われ」の概念と何かが大きく違っているということ。そして、いつも私が感心する事は、こちらの提示する疑問点を彼らは全く疑問には思っていないこと。そして、何にもまして彼らは「聖書に書いてあるから」というだけで全てを信じる従順なキリスト教徒であったという事です。
そこで、話の最後には決まって、私から「それなら宇宙人が出てきたらイエスは人類だけではなく宇宙人の罪の贖いまでするのか」という、私の最後の切り札の質問に対して相手が「うっ」として回答に詰まり黙ってしまい、私としてはここで問題提起ができた事だけでも良しとして話は終わってしまうのでした。
私の最大の疑問は新約聖書は後代にかなり恣意的(てき)に編纂されている事からして、それが本当にイエスの主旨なのかどうか。「人類の罪の贖い」なんてイエスが本当に語った事なのか。聖書に語られている事にはかなりの無理があり、それに強く頼るキリスト教にはもはや普遍性の欠片も無く、独善的で、排他的で、かなり異質な閉鎖的な宗教だと思っていたことでした。
般若心経の『実在』を正面に説き、実に大らかで全肯定に向けて展開する真理に比べて、キリスト教は実に偏狭で読むだけで脅迫されている感じがして、これも同じ宗教の範疇に入るものなのか。さらには、いつも神と悪魔の狭間のその緊張感の中にいて、よくも心の平安を得ることが出来るものだ。という点も大きな疑問でした。
これらの事から、キリスト教は根本的な矛盾に満ちているように感じていて、いつもその点を重要な課題としつつも私の中では未解決の問題としてずっと先送りにしていました。
ところで、私が体得した普遍の真理から見て、私はイエスを覚者として見つつも、「イエスの大犠牲」によって立つキリスト教に対してどうしても違和感が払拭できずにいました。イエスの存在とキリスト教との間には大きな隔たりを感じていて、それが私の解決しなければならない次の課題と決めていました。
そのような問題意識を持つ人がこの書を読むべきであり、疑念を持たない人はまだその時機では無いと思います。もしそれでも読むのならば、それなりの覚悟を持って読んでください。
イエスを信じイエスを至上の存在としつつも、ローマ帝国経由のキリスト教に対して疑念を持っている人は私の周囲にもいますし、世界的に見ればかなりの数と考えられます。